不平文士の節酒日記~ADHD 死闘篇

アルコール使用障害とADHD に立ち向かいつつある技術系会社員のブログ

「『ジェンダーフリー』『バックラッシュ』を再考する」の感想の感想。

コメンテーターのid:yamtom さんが感想を表明していたので感想返し。

  • 「批判」に弱すぎる女性学

会場からの印象では「コメンテーター三人の連帯による各個撃破」にみえました。
わたしのはてブにも「呉越同舟」なる指摘がありましたが、女性学会側?が個別の対応に終始したのに対し、三人衆プラスワンは

macska 2009/06/24 12:13 えー、なんでわたしそっちのグループなのー?(笑)
yamtomyamtom 2009/06/24 16:49 ははは。そっちのグループ連続した最後に、しっかりと締めるコメントよろしくー(笑)

http://d.hatena.ne.jp/yamtom/20090623/1245828636

と戦列を用意しヤル気満々。

三人のコメンテーターの立ち位置はまるで違い、唯一、「外部」であるという自己認識で共通しているようにしかわたしの目からは見えないのですが、とにかく連帯した方が強いに決まってるぞ。強ければそれでいい、わけではないが。

私の発表の中でも指摘したのだが、いまの女性学会における女性学は批判に弱く、異論があってもおさえこまれ(「バックラッシュ対抗」というのが言い訳によく使われる)議論があまり成り立たない傾向がある。それと同じ現象が昨日も見られたのだった。

批判応答性が悪く不誠実なのはまったくその通りで、発言中にわたしも同意しました。
しかしわたしの斉藤批判もスルーされてますし、他の人の斉藤批判(というか怒り表明)には「怒りを感じていただけたようで発言した甲斐があった」なる勝利宣言のみ。

パネリストからも会場からも出た、「けんかしないで仲良くしようよ」「連帯こそが大切だよ」発言というのは、そうした議論や批判の役割、および異論をおさえつける役割を果たしていると思う。

しつこく書きますがわたしが言ったのは「消耗戦は馬鹿らしいので仲良くやろうぜ」ということ。
前提として「ジェンダーフリー」批判を受け止める必要があるし、ここまでは言わなかったが、受け止める度量がない人間(=イダさん)なんて放っておけば?いやおくべき、というのがわたしの意見です。

id:o-tsukaさんが、「仲良く議論する方法はある」というが、時にはああいうふうにストレートに議論すること、そして、そこでの議論をパーソナルなレベルで捉えないことも重要だと私は思っている。

だって議論になってなかったじゃないですの。

  • 私への批判の集中と、チキさんのスルーされっぷり

わたしとは認識が違いますね。斉藤さんも複数から批判されていました。チキさんの発表には異論がないので批判しようがなかった。

その後斉藤さんが「チキや斉藤は仲間にいれてやってもいいが、山口はダメ」という分断作戦か、と指摘されるくらい、私へ批判が集中した。

この発言には苦笑させられました。
壇上でいちばん聞く耳をもたなかったのはイダさんであることは間違いないが、次は斉藤さんのように思われましたが。

トークの内容じたいは、3人で前もって相談し、パワポも事前に交換してコメントしあったりもしていたので、トーンとしては3人ともそう違ったとは思わないのだが。

ぜんぜん違うように感じました。まぁこれは人それぞれか。

(まあマナーについては、チキさんも若干いわれていたようだが)。

立て板に水すぎて応答する気力を減じさせる話し方ではありました。

(あ、ちなみにid:o-tsukaさんがブログで私の声のトーンについて言及されていたが、まあたしかにちょっと緊張していたのもあったけれど、もとからああいう声なんです。子どもの頃はよく「泣きそうな声」とかからかわれていたものだった(笑))

弁解する必要があるとも思いませんが、わたしは最初の声と最後の声を対比して判断しました。
わたしはパネルの司会経験もありますから、当初ひどく緊張していたことくらいわかりますよ。

そうではなくて、斉藤さんが指摘したのは、官僚とどっぷり組んでお任せ体制で「運動」を統括するような活動を行ってきた学者たちのあり方だと思う。そして、「運動」をなぜか「学者」たちのみが統括するような状況になってきてしまった、ここ10年ほどのあり方だ。裏を返せば、「女性学」に対して(および「行政」に対しても)、ストレートに異議申し立てしたり、批判したりする方向性の女性運動体がなくなってきてしまった、というこの約15年だったともいえるだろう。(そういった意味でも、私は「行動する女たちの会」の96年の解散は、シンボリックなものだったと考える。)

非・学者の側が主体的能力の不足を棚に上げて学者の側を一方的に論難しているように思われます。
わたしは非・学者の活動家でしたが、自己の能力不足や努力不足を認めるのにやぶさかではない。
学者の本職はアジテーションではありません。社会状況や市民が「ストレートに異議申し立てしたり、批判したりする方向性」を求めていないのなら仕方ないでしょう。

先日、私がトークとパネルディスカッションに参加させていただいた、富山での「高岡女性の会連絡会」の解散集会はその意味でも興味深かった。会の代表の方は、会の活動が行政への「要望」中心−というか、ほとんどその連続−になってしまい、その限界がきたのではないかという見方を提示していたのだ。ある意味、この10年ほどの「男女共同参画」時代の女性運動の行き詰まりを示してもいる解散でもあったのかな、という気がした。斉藤正美さんがその集会の中で「「行政密着型、要望型の運動からの脱却」という意味と捉えれば、この解散はすごくプラスの方向性だと思う」といったようなことを発言されていた。行政と学者によって主導された「男女共同参画」、そしてそれによりそうようにすすんできた女性運動は過度期にきており、新たなあり方を模索していかなければならない時期なのだと思う。

これには同意しますが、「新たなあり方を模索」が、古い学者の総括からはじまるとは思えません。

  • 「ピンク本」

ピンク本呼ばわりはさすがに失礼だと思った。
以上、引用はhttp://d.hatena.ne.jp/yamtom/20090628/1246257215より。
あ、昨日書いた細谷さんの伏見理解ですが、「ジェンダーの存在を前提として、それを禁止するのは反対。強制するのも反対」といったあたりのようです*1
それに対し、イダさんは「現に存在するジェンダーの存在、それ自体の解体」なのかどうか。
わたしの立場は「ジェンダーの存在を前提として、そのジェンダーの/からの自由」といったところです。

*1:わたしは単に、伏見にとっては既存のジェンダー枠組みが大切なのだろう、と感じましたが