不平文士の節酒日記~ADHD 死闘篇

アルコール使用障害とADHD に立ち向かいつつある技術系会社員のブログ

官製幻想

以前、「ジェンダーフリーはもうやめよう。」というエントリhttp://d.hatena.ne.jp/o-tsuka/20051007でリンクを貼らせてもらったことがあるポスドク文化人類学者で女性学研究者の山口 智美さんが、「官製「ジェンダー」が下りてきた!:「ジェンダー」「ジェンダーフリー」の定義をめぐる闘争と行政・女性学・女性運動」という文章を書いています。
http://homepage.mac.com/tomomiyg/kanseigender.htm

個人の「意識」に焦点を当てることで、日本の行政が大好きな、市民の啓蒙に仕立てることができたのだ。 そして「お勉強しなければわからない概念」であり、意識啓発が目的の「ジェンダーフリー」が生まれた。この概念が、東京女性財団や国立女性教育会館などでの行政講座などを通じて、中央から地方へ、官から民へと広められていったのである。

いつも同じようなメンバーで構成される行政主導の専門家の集まりが、「ジェンダー」概念を定義し、それが官から市民へ、中央から地方へ下りてくるという状況は、「ジェンダーフリー」と同じだ。この構造自体を変えて行く必要もあるのではないだろうか。下から、運動の現場から、それぞれの地方から、どのような概念が何のために必要なのかを提示し、議論していくことが必要なのではないか。少なくとも、日本の女性運動は行政をリードしてきた歴史をもってきたはずだ。

この主張は、ここ10年のあいだ日本の女性運動で主流を占めてきたといえる「官製ジェンダーフリー運動」を批判する文脈で書かれており、立場は正反対ではあるものの、皮肉にも「アンチジェンダーフリー」のフェミ狩り諸君の主張と部分的に重なり合っています(だから彼らに都合よく利用されているわけです)。
さらに、<上からの押付け>、<東京から地方への押付け>という、左翼系市民としてはたまらなく反発したくなる構図も織り込まれています。
女性学研究者のポストも官製運動のおかげで確保されてきたのですが、まぁこういう自己否定的な総括は日本左翼の最も得意とするところのひとつなので気にしないでおきましょう(しかし「行政が大好き」「仕立てることができた」「お勉強」などという、感情が乗っかってしまった言葉を連発するのどうかと思う)。
さて、この主張についてですが、わたしは部分的にしか賛成できません。
フェミニズムは既に勝利している」というエントリhttp://d.hatena.ne.jp/o-tsuka/20040618#p1に書きましたが、日本のフェミニズムは上下両方からの攻勢によって勝利したのです。学生運動のように、中央のエリートやその予備群が暴れまわっても、日本の権力システムは変わったりしません。
東京女性財団は国の機関ではなく「地方」の機関であり、それも行政ではなく都民によって運営されていた独立した組織でした(少なくとも建前上は)。つまり<官→民>、あるいは<学→官→民>というプロセスではなく、<民→官→民>という民主主義的プロセスを経ているのです。
また国立女性教育会館(かつての国立婦人教育会館)は基本的には情報機関であり、各先進地方自治体の社会教育講座の実践を集約し、それを共有化するという<地方→地方>の松下圭一的な地方分権システムに寄与する組織です。
それらをして「中央から地方へ、官から民」と言うのは暴論、いや誹謗中傷の類と言わざるを得ません。
山口さんも指摘しているとおり、日本の女性運動は行政をリードしてきました。それを支えてきたのは、地方の無名戦士たちであり、その働きかけによって動き、それを援助した地方公務員です。「官」は使いようであり、日本の女性運動は見事にそれをやってのけたのです。
あと、偏見かも知れませんが「いつも同じようなメンバーで構成される行政主導の専門家」って表現にはなんかルサンチマン(怨念)を感じるわ。