安彦さんは、「僕が、ガンダムをいちばんわかっているんだ…!」と誤解していることに気がついてしまった
先日「安彦良和/機動戦士ガンダム THE ORIGIN 展」を観に行って、つくづく自分はTHE ORIGIN を途中から見誤って(というか見限って?)いたんだということに気が付き愕然としました。
安彦さんは自分が誰より「1st ガンダム」を理解していると思い込んでいますが、少なくとも富野監督にとってのガンダムをよく(いやまったく)わかっていない。その証拠に、キャラクターレベルで、富野さんの思い入れと安彦さんの思い入れは見事なまでに食い違っており、その結果、物語の構造自体が異なってしまっているのです。
富野監督にとってガンダムとはまずもってシャアの物語、キャスバル・ダイクンの貴種流離譚・復讐の物語であり、アムロは物語を駆動するための軸、ホワイトベースは何故か皆が(毎週)そこに群がってくる空虚な中心です。敵であるジオン軍、とくにギレン以外の面々に至っては、その場限りの狂言回し的な存在でしかない(ガルマやドズル、キシリアや女性キャラの描写に顕著)。そして富野にとってガンダムは「殺伐とした、冷たい世界」。誰もわかりあえることなどない。
安彦さんにとっては逆に、ガンダムはアムロの成長物語であり、ホワイトベースクルーの集団劇であり、ザビ家の全員を含むジオン軍の多くの面々もそれぞれの確固とした根拠を持って群像劇に参加している。それに対し、ジオン・ダイクンやシャア、セイラ、あるいはミライといった「王族・貴族」の方が、物語を駆動するために無理めの道化を演じさせられている。安彦にとってガンダムは「信じられるものがある、やさしい世界」。人はわかりあえる。
『機動戦士ガンダム』がその他の富野ガンダムや安彦の『THE ORIGIN』と異なって奇跡的なバランスを保っていたのは、このふたつの全く相反する価値観が同居し、それらが混ざり合い、どちらにも偏らずに描かれた結果なのだと、今は思えるのです。