不平文士の節酒日記~ADHD 死闘篇

アルコール使用障害とADHD に立ち向かいつつある技術系会社員のブログ

アイデンティティ政治を超えて

しかしこれでは何も言っていないのと同じなのではないか。
そこでマルクス主義経済学者・松尾匡の言葉を引用してみましょう。

 そもそもこれらの集団アイデンティティなど、みんなが「ある」と思うからあるのであって、みんなが「ある」と思わなければなくなるしろものである。しかし経済的カテゴリーの方は、いくら頭の中で忘れても胃袋に厳然と存在している。この世界に現実に存在して生きている経済弱者が、頭の中にしかないアイデンティティ集団に分かれて争いあうかぎり、目下の境遇から脱却できる日は永遠にやってこない。
 しかも、濱口先生は、赤木氏が露悪的に述べている、自分より比較的よい境遇の人々を、もっと強い人の力で叩いて引きずりおろしたがる志向をたしなめているが、それは全く先生の言うとおりである。そんなことをしても、頭は満足できても胃袋はちっとも満たせないからである。

アイデンティティの政治」におちいる限り、「食うか食われるか譲り合うか」の図式にしかならない。それを脱却して、相手にトクをさせることで自分もトクをする「ウィン・ウィンの関係」が作れることを理解しなければならない。
 要するに手前味噌であるが経済学の出番なのである。昔のマルクス・レーニン主義は愚かなこともいっぱいしたが、なぜ虐げられた労働者の心をつかむことができたのかというと、経済学が基礎になっていて、暮らしの都合から話を説いていたからである。市民派リベラルもそのように進化しなければならないのだ。そうしてこそ、正社員大労組も被差別アイデンティティの労働者も、非正規・流動的雇用のワーキングプアの人々もみな自然に糾合できる、今度こそ本当の意味での左翼勢力が出現できるだろう。

「07年12月25日 市民派リベラルのどこが越えられるべきか」
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_71225.html
つまりこうです。世の中、ゼニや。