不平文士の節酒日記~ADHD 死闘篇

アルコール使用障害とADHD に立ち向かいつつある技術系会社員のブログ

自由は、責任と関係なくある。

ぼくはイラク邦人誘拐事件で、政府関係者やマスコミやネットウヨ山形浩生の自己責任論に驚いた。その主張にも、主張する人々にも。いずれ当人たちの首を絞めかねないヤバい議論なんだもの。
まず基本。当然の話だけど、あらゆる活動はその人の自由である。自由を追求できる限りは自分でやり、それを越える部分は社会全体でプールしたリソースで対応。それが多くの場面での社会の仕組みだ。自由の限界については諸説ある。でも社会に個人で追求できる範囲を越えて負担する部分があることは絶対否定できないんだよ。人々の多くはそれを知っている。ぼくたちパンピーは、現に自分のヘマの責任を全部自分で取るなんて無理だもの。それを無視した自己責任論は、どんな高尚な理論に基づこうと説得力はそもそもまるでない。
そして社会のプールは有限とはいっても、何が真に有用な活動であるかの基準は恣意的だ。自己努力をさぼってプールを浪費したがる個人は拒絶するか、プールの目減り分の一部負担を要求するというのは、正しい社会運営のように見えて、実は貧富やその他の社会的な格差を無視してしまうかもしれない。国や政府は大きな社会とその管理人なんだよ。だから政府が、人質たちが責任を果たしたか気にするのは当然に見えるかもしれないが、管理人のジャッジメントが公正である保証はない。今回の場合、問題にされてる責任ってのは十分な情報収集と装備と安全態勢確保、できれば保険であると仮定しよう。でも人質の皆さん、何一つやってなかったなんていう指摘は、結果を見て言っていることに過ぎない。事後のプールの補填(ほてん)も小銭程度だなんて、何十万の負担が小銭とは凄い感覚だ。社会的連帯の否定もいいとこだ。邦人保護は政府の義務だし、だから政府は救出努力をしたというなら、血税を使ったその「努力」こそが厳しい検証に晒されるべきでしょ。でもなぜそれが自己責任を問題にする議論になるの?
かれらの活動が自己中心的だから非難してよい、という人もいる。曰く、高遠氏のボランティア歴はかなりお粗末だし、イラクでの活動もシンナー遊びの若者支援。今井氏の目的は劣化ウラン被害ネタの絵本づくり。イラクでなくても十分取材可能だ。残りの3人も、ジャーナリズムとNGOの特権幻想にあぐらをかいた功名狙い。どれもイラクへの直接的なメリット皆無。これに敬意を示せだの大目に見ろだの主張するのは、あまりに苦しい。…という産経新聞週刊文春・新潮だけをソースにしたような戯画化も、「敬意を示せ」「大目に見ろ」だのの主張を具体的に誰がしたのか指摘もせずに非難するのは、あまりに苦しい。
そしてもっと大きな問題。自己責任論者は、イラクの「危険な」情況をつくったのは人質たちじゃないし、人質が拘束されたこと自体には、人質自身に何の責任もないってわかってるの?この期に及んでイラク自衛隊を派兵したトホホな首相がいる。責任論を主張するなら、あの部隊を「戦場ではない」などという詭弁を使って、戦場に送り込み、実質的には侵略・占領のお先棒かつぎをした、そのことが人質事件の要因であり、政府の責任こそ追及されるべきだ、という議論は十分に成り立つのだ。ぼくはそのほうがずっと有用だと思うけどね。
そして自業自得だとか自己責任を果たせと主張する人々は、その非難が自分たちの当然の権利をおとしめ、行動の自由を失わせる主張だと理解しているだろうか? 自己責任という言葉に少し留意すれば、それがその責任と自由をバーターにしかねない議論だと解るはずなのに。なのに自己責任論者の多くが、他の場面では自分の自由を国家に預けたり、委ねたりするものだと訴えている。あぜん。ねえ、もしそう主張するなら、その自己責任論ってまずいよ。ほんとはあなたたちこそ率先して自由や権利の明確化に動くべきなんだよ。だって自由や権利は、責任などということは関係なく、あるものなんだから。
元ネタはこちら。
http://www.be.asahi.com/20040515/W12/0025.html