不平文士の節酒日記~ADHD 死闘篇

アルコール使用障害とADHD に立ち向かいつつある技術系会社員のブログ

運動論

ちょっと前の話題になりますが、id:gyodaiktさんのところ(やその近所)で運動論が語られていました。
興味深く読んだのですが、どうもわたしの神経にぴしっとはまるものがない。
その理由はわたしの経験からくる視点の差異であろうと思います。
運動をある政治的目標を達成するための行動であるとします。その政治的目標については自ずから利害関係が発生します。
この利害関係を整理するのが学者やジャーナリストといったオピニオンリーダーです。
その利害関係をコーディネートするのが「政治家」です。政党の実力者、業界団体のボス、活動家の親玉といった、動員力と交渉力を持つ人々です。
「政治家」は配下の活動家を使って運動参加者を動員します(職業政治家の大半は、この分類では活動家になります)。
運動参加者は活動家や報道を通じて運動を知り、自らや所属団体の利益、あるいは良心といった動機に基づき運動を構成します。
いささか典型的に過ぎる腑分けですが、わたしの知る運動というのはこのような構造を持っています。
9・11後の平和運動の場合は、比較的キャリアの長い活動家数人が自分のネットワークによって火をつけ、その後に宗教団体・労働団体・政党・一部セクトが参入し、オピニオンリーダーは遅れをとった印象があります)。
わたしは面倒くさがりで、余程やる気の充実しているときしか運動に参加しないため、「動員される」側の視点は希薄です。
もちろんオピニオンリーダーや「政治家」といった「動員する」側でもない。
しかし第3者的な立場でもありません。実は一時期、活動家として生活していたため、「動員させられる」という立場にいたのです。
これはけっこう面白い経験で、いろいろな団体や個人が固有の利害や論理で参集してくる中、それぞれの事情と運動の都合にあわせた活動のメニューをつくるという、なかなか得難い体験をしました。
とくに、わたしが関係した運動はいわゆる「市民」と「組織」のせめぎ合う場であったため、ルーチンワークでは対応できず苦労もしましたが、いま思うとエキサイティングな仕事でもありました。
「組織」はその存在理由が割合はっきりしているためビジネスライクにつきあえるのですが、個々人や歴史の浅い運動体が相手だと、運動する理由が自分でも明確になっていない場合があり、相手の混乱に付き合うことを強いられたりもしました。こんな時には「運動に参加するなら動機を明確にしてよ」と(心の中で)叫んだものです。