不平文士の節酒日記~ADHD 死闘篇

アルコール使用障害とADHD に立ち向かいつつある技術系会社員のブログ

腰抜けは「えらい」人の言葉を借りて歌う

成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN― http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060514さんで知ったのですが、かつてゲイ・リベレーションのイデオローグであり、現在はゲイ業界の「ドン」である伏見憲明が、「アイデンティティ懐疑はもうよろし」と吠えています。
http://www.pot.co.jp/fushimi/2006/05/13/ycyycyoyaeyyaeyuuiaei/
わたしはここで取り上げられているものを読んでいませんしあまり読む気もしないのだけれど、フェミニズムクィア関連がいちばん熱かった時期にいろいろ読みこんでましたので、伏見の文章を読んでだいたいのあらすじはわかった気になりまして、以下の文を書いてみたものです。

柄谷行人著『世界共和国へ』を読んだ。非常に刺激的な内容で考えさせられるものがあったのだが、そこに以前、上野千鶴子編『脱アイデンティティ』を読んだときに伏見が素朴に思った疑問が、思想的な文脈で主張されていた。いや、もちろん柄谷氏はあの本に向けて反論しているわけではないのだけど。

じぶんで予め手前勝手な利用主義的読みであることを言い訳。相変わらず手口がせこい。

「カントによれば、統整的理念は仮像(像)である。しかし、
<中略>
同一の自己が仮像であるとしても、それは取りのぞくことができないような仮像なのです」

だそうです。この<中略>内は論理的で説得力がありますが、「取りのぞく」までもなく、疑うことによって新たな「統制的理念」とやらを日々刻々作り上げることは彼の理屈の上でも十分可能なので、「アイデンティティ懐疑」への決定的批判になど成り得ません。

これって、野口勝三氏のクィア理論批判に通じる論旨ですね。大学でジェンダースタディーズとかを学ぶとみんな、アイデンティティ懐疑みたいな方向に(制度的に?政治的に?)導引されてしまうのだけど、いつまであんなことやってるのかねえ……。バトラー祭り?(笑) どうせなら、もっと論理的に野口批判とか柄谷批判とかを展開すればいいのに。まあ、そんな勇気もないのだろうけど。

「野口勝三氏のクィア理論批判」というものがどんなものか知りませんが(野口氏自体、知りません)、「クィア・ジャパン」という雑誌を自ら創刊して長いことつくっている人物が何を言っているのかと。さんざん「クィア」を飯の種にしてきたくせに理屈で反撃されれば被害者面ですか。
だいたい、自分で論理的に批判を出来ないのに「どうせなら、もっと論理的に野口批判とか柄谷批判とかを展開すればいいのに」とは泣けてくる。勇気とやらがないのはいったい誰なのか。
昔はもっとまともなことを言っていて、勉強させてもらった恩はありますが、90年代「ゲイブーム」の陰りが見えてきた頃からだったか、単なる保守言論者(かつ業界の黒幕見習)に成り下がって久しいですね。面と向かって批判されても、相手の言葉を混ぜっ返すことしかできないし。
彼のプロフィル
http://www.pot.co.jp/fushimi/profile/
を眺めてみたところ、かつてわたしが参加し、もう死んだ友と初めて出会ったイベントについて、「〜人を動員した」などと書かれており、我々がこんな人物によって「動員」されたという「歴史」がつくられているのかと知って、かなり情けない気持ちになりました。