今敏『パプリカ』の規範性
以前、友人からDVDをいただいて、そのまま放置していた『パプリカ』を観た。
一度目は酒を飲みながらだったので、二度観た。三度観る価値のある作品だとは思う。
しかし、アニメーションとして素晴らしい作品だとは言えるが、映画としてすばらしい作品だとは決して言うことができない。
クィアを利用したクィア否定
本作品のビジュアル面の魅力としてもっとも魅力的なのが、パレードのクィア性にあることは論を待たない。
夢、悪夢、それが本作品の主要モチーフであり、テーマでもある。
しかしながら、それは科学によって克服されるべき敵として描かれる。
ターザンや保安官に憧れるマッチョマンの中年刑事が、ラスト近くで実感をこめて吐く「気持ち悪」という台詞は、かつて気持ち悪いモノとして扱われたことのある人間の古傷を抉る。
確信的な周縁の排除
本作品でおきる事件の根本原因をつくったマッドサイエンティストは規格外のデブである(外見からすると体重は200キロ以上あるだろう)。
事件を引き起こした第一の当事者(彼も立派なデブ)、そしてラスボスは男性同性愛者である。そして彼らによる行為は忌まわしいものとして描写される。
ラスボスは「ハゲ親父」と罵倒される。
そして主人公はコケティッシュな魅力のある若い女性、知的でクールビューティーな女性、この二者は夢と現実の舞台で使い分けられているが同一人物。
つまり、この作品はその物語性の成立のために様々な差別を利用し、結果として様々な規範を強化するものであり、差別と闘ってきた人間のひとりとして、決して讃えることはできない。
ラストシーンでは、一緒にDVDをみていたバイセクシュアルの後輩と顔を見合わせ、
「ひどいヘテロノーマティビティだよねー」
と言ってしまいました。