不平文士の節酒日記~ADHD 死闘篇

アルコール使用障害とADHD に立ち向かいつつある技術系会社員のブログ

解放運動(liberation )とは

自由主義(liberalism )の系譜に位置づけられるものです。
リベラリズムとは古くは王や教会といった絶対権力への反抗から、市民革命、普通選挙運動あるいは社会主義、女性解放といった歴史を辿ってきました。
その最前線のひとつが、たとえば様々な性的少数者の解放運動(定着した名前はまだありませんが、ここではクィア・リブと仮称します)であり、身体・精神障害者の解放運動であったりします。

新しい運動

というものは、当然ながら多かれ少なかれそれ以前の運動の知見を借りて行われているもので、例えばウーマン・リブマルクス主義革命運動や学生運動労働組合運動から多くのものを継承しましたし、フェミニズムウーマンリブから、ゲイ・リブ(同性愛解放運動)はフェミニズムから多くのものを受け継いできました。クィア(カタカナで「ヘンタイ」とでも訳しましょうか)の解放運動は、ゲイリブの中から産まれてきたと言ってもいいものです。
しかしながら、新しい、下流の運動は、たいていの場合古い、上流の運動から阻害を受けました。
例えば、マルクス主義者は女性解放運動家に対して革命成就の暁には即ち女性は解放されるという与太話を吹聴しましたし、ウーマンリブ活動家はフェミニズムを学者と専業主婦の趣味に過ぎないと扱き下ろし、最近の一部フェミニスト*1は「ジェンダーフリー」について「女性解放運動を精神論にすり替えた」と非難します。

*1:http://d.hatena.ne.jp/o-tsuka/20060413で取り上げたような人たち

同様に

ゲイリブはクィア・リブに対し、その誕生以来、分派主義的妨害活動であるとして、意識的/無意識的妨害活動を繰り返してきました。
伏見憲明は、その童貞作にて最大の名著『プライベート・ゲイ・ライフ』(1991)において、ゲイ……男性・女性の同性愛者の問題に留まらない広範な見通しを持ったビジョンを提示し、日本におけるゲイリブ中興の祖となったと同時に、クィアリブの嚆矢ともなりました。
彼はまた、対談集『クィア・パラダイス』(1996)を発表し、ネットの普及以前、非常に不可視的かつ興味本位な立場に置かれていた様々なヘンタイ(クィア)たちを世に紹介し、その後も現在にいたいるまで継続して『クィアスタディーズ』『クィア・ジャパン』等の書籍の編集、出版に関わっており、日本における「クィア」第一人者としての立場を不動のものとしています。
しかし彼はその一方で、常にゲイ中心の立場を崩すことがなく、そのこと(並びに彼のパーソナリティ)によってゲイ以外のクィア理論家や活動家との衝突や訣別を繰り返し、また最近では「レズビアンゲイ・パレード」の名称に対して国際的に主流の「LGBT」(レズビアン、ゲイ、バイ、トランス)とするべきではないかとの提案について、論理性のある返答のないまま一蹴にし続けています。
また、昨日のエントリで紹介した通り、「クィア理論」に立脚する若手の理論家を十把一絡げに不当に腐しています。*1
これはダブルスタンダードどころか詐欺に近い行為ではないか。つーかいい加減にしろ、と思い昨日のようなエントリを書いた次第です。しかし彼のように敵をつくるのが好きな人物が中心に居座っているというのは、日本のゲイリブにとって実に……この先の結論までを書き上げてすぐ、偶然にもHIV関連の運動をしているゲイの友人(31才)から電話がかかってきました。
さっそくこの話題を取り上げたところ、「誰それ?」……なるほど……確かにゲイリブ自体が既にマニアックなものと化しているのかも知れません……。

*1:ところで、野口勝三の名で検索してみたところ、彼は『クィア・ジャパン』の寄稿者でした。伏見の(大塚英志ばりの)身内贔屓は今に始まったことではありませんが、彼にだけ敬称をつけているあたりに伏見の品性がわかりやすく露呈しています。また、彼の原稿について、古株の性的少数者活動家で反ジェンダーフリー保守論客としてもごく一部で有名な神名龍子が、何人かの新保守論客の系譜に並べることで絶賛しているというのも示唆的です