不平文士の節酒日記~ADHD 死闘篇

アルコール使用障害とADHD に立ち向かいつつある技術系会社員のブログ

ミット・ロムニー落選記念

完全にネタバレです。
Twitterにて、『グラン・トリノ』の強姦描写に対する批判が出て、そのあとにこのような弁護があった。

グラントリノに出てきたレイプは、男に立てつく賢くて生意気な女は蹂躙して抑えつけてやるって描かれ方がされてたので、あまり気にならなかった。変質者の性欲の発露の結果としてエロコンテンツ化されるより誠実な描き方だと思ったのよな。実際世の中の構造がそうなってるんだもん

しかもそれが罰としてじゃなくてちゃんと、単なる男のルサンチマンの発露であり理不尽なこととして描かれてたしね。わざと被害者を愚かに描いて女を懲らしめてやる系の描かれ方があまりに多すぎるから。
https://twitter.com/kera_ma_go/status/265990735160033280

悪い加害者(低所得の若い有色人種たち)を懲らしめるのがクリント・イーストウッドである。しかし、アメリカ社会は『ダーティーハリー』の時代とは異なり、白人男性がひとりでどうにかすることは不可能になっていた。なにしろ、イーストウッドは息子夫婦の勝手な行動すらどうにもできない。
そこで登場するのが有色人種の少年、強姦された少女の弟である。
少年の楯になって死んだイーストウッドの魂(と車)を受け継ぎ、少年が大人になるところで物語は終わる。アメリカ保守は終わったが、アメリカンスピリットは、寛大にも男らしい有色人種を受け入れ、次世代に羽ばたくのである。
さて、被害者にして物語を強力にドライブする道具立てにされた少女はどうなったのであろうか。
不明である。
不明なのだ。
こういうのを疎外という。
アメリカ保守の白人男性は、子どもの女性を利用して、自分の精神の永続化を計ったのである。
アメリカ保守は終わった。
二重の意味で、終わっていたのだ。