不平文士の節酒日記~ADHD 死闘篇

アルコール使用障害とADHD に立ち向かいつつある技術系会社員のブログ

何故ベストを尽くさないのか?

先日、友人の誘いを受け、日本軍が中国大陸に遺棄してきた兵器についてのドキュメンタリー映画を見てきた。
10年のキャリアを持つ海南友子監督の、『にがい涙の大地から』という作品である。
飯田橋と水道橋のあいだにある、日中友好会館で、明日、9日まで上映されている。
目をふさぎたくなる、とか、耳を覆いたくなる、という表現にお目にかかることは、ままある。
だが、映画を見ていて、じっさいにこの語義通りに耳を塞いだのは、ひょっとしたらこの作品がはじめてかも知れない。
監督は、執拗に、まさに執拗に被害者の影を追う。
それが本題だ。
それを追う監督の姿は見えない。
監督の影を想像するわたしには、彼女が殉教者のように、あるいは、十字軍兵士のようにすら感じられる。
侵略戦争は悪い。
それは、あたりまえのことだ。
だから彼らの傷に、日本人なら責任がある、この論理に不思議はない。
しかし、被害者が苦しんでいるのは、侵略者たる大日本帝国、そしてその末裔たる日本国のせいだけではない。
むしろ、この映画を見ると、共産主義とは名ばかりの19世紀的資本主義が跋扈する、現代中国の苛烈な状況が彼らを苦しめているように思える。
遺棄兵器で傷つけられた人には、救いの手が差し伸べられるべきだ。
それは、心から思う。
しかし、中国大陸の同胞は、どれだけ彼らに対して力を貸しているのか。
家族の痛々しいまでの助力は描かれているが、「日本国」と対峙すべき「中国」の姿はない。
加害者として糾弾され、たしかにその遺産を受け継ぐ我々こそが、彼らを救い得るのか。
そんなはずはない。
……
映画のパワーに負け、いつもの「ですます」調が「だである」調に変わってしまいました。